書いてあったのは次の日の日にちだった。次の日の夜は、満月だった。何を企んでいる
のかはわからなかったが、それに夕香を関係させる理由もわからなかった。だが、重陽が
過ぎ去ったのだ。陰を狙って動いたとしてもおかしくはない。
「都軌也」
 呼ばれて振り返ると嵐がいた。今まで気がつかなかったがずいぶんと目線が近くなった。
首を傾げると嵐が月夜をさらって男子便所に連れて行った。
「なんだよ」
「いや、……他に聞かれたくない話だったからな。廊下でする話ではないから」
「だったら部屋に呼べよ」
 呆れ顔で言うと嵐を見た。嵐は珍しく頑なな表情を崩さなかった。嫌な予感を感じて眉
を寄せると嵐は一つ溜め息をついて目を伏せた。
「何があった?」
 低い声で尋ねるとようやく嵐が口を開いた。
「実は、和弥が、襲われたらしい」
「何にだ?」
「…………」
「さっき俺が送り届けたはずだぞ?」
「…………」
 唇を引き結んで嵐は目を閉じた。嵐も動揺しているらしい。
「さっき、病院のほうから連絡があって、ね。玄関でばっさりやられたと」
「誰にだ?」
「まだわからん。無差別殺人の方でサツが調べてるらしいが、こっちの職員が調べたとこ
ろ傷口から瘴気が漂っていたそうだ」
「妖か?」
「かも知れない。関係者といえどもあいつんち祖母が身元引取り人になっているが鳥取と
か島根とかの辺りなんだ。……連絡は」
「真田にテルいれな。……これから少し忙しくなるんだ」
 そういうと月夜は嵐に背を向けてその場を立ち去った。頭の中には和弥をやった人物が
朧ながら像を結んでいた。
「白空」
 小さく呟くと部屋に戻って潔斎のために斎服を取り出して、ぐっと拳を握って水晶の数
珠にそっと触れた。
 そして、夜になった。月夜は斎服を着込んで近くの山を少し登ったところにある滝に向
かった。言うまでもなく、禊だ。
 蝋燭を灯して滝のすぐ脇にあった岩にそれをおいて拍手を打ち鳴らしてから水の中に入
った。指先からぞわりと鳥肌が立つ。唇を引き結んで中に入ると膝まで水に浸かった。
 水が絡みつくように思念を持ち月夜に語りかける。
《今回は何用でしょうか?》
「禊だ。この場を清めてくれるだけでよい」
 そう語りかける月夜には一族の宗家たる威厳が備わっていた。術者の宗家とは一族をま
とめ、また、自然の化身である妖や精霊と語り合う資格を持ち合わせるものだ。正式には
宗家ではないものの、宗家の血を引くものとして月夜は認められているのだ。
「高天原に 神留坐す 神漏岐 神漏美の 命以ちて……」
 祓え詞を唱えてから滝に体を打たせて目を閉じた。元から白い手が一気に白くなってい
く。
 閉じられた目蓋は小刻みに震え濡れた髪に彩られる頬は異常に白くなっていく。合わせ
た手の右手紅指には龍神から賜った指輪が煌いている。その煌きはひときわ強いものとな
って月夜を包む。
「何用だ? 藺藤の子よ」
 語りかけてくる声が合った。目を閉じたまま月夜は龍神の思念に集中した。
「天狐の姫は、どうですか?」
「よもや、お前、それだけの理由でこんな夜分」
「いえ、失礼しました。明日の夜、望月の時、神に仇なす元は天狐の子と、刃を交えるが
故に精進潔斎を。明日、お伺いに向かいたいのですが、よろしいでしょうか」
 龍神が思案するような気配が感じられた。静かに言葉を待つ月夜はふと自分を包む神気
が龍神のものでもなく、感じた事もない神気であることに気づいた。
「そうだな、何用だ?」
「この体を預かっていただきたいのですが」
「天狐の姫と同じようにか?」
「はい」
「霊体に傷がつけば、肉体にも傷がつく。わかっているな」
 はいと頷いて深く息を吸って吐いた。呼吸に合わせて神気が揺蕩たっているのがわかっ
た。どうしてだろうか、とても懐かしいような気がする。
「明日、こちらに来い。無理やりでも魂引っぺがしてやる」
「よろしくお願いします」
 一礼した。程なくして龍神の気配が遠ざかる。これで良かったのだろうか。ふと、そう
思った。
 ふっと目を開けると夜明け前の空だった。今日は学校を休むかと思って滝から出てまた
祓え詞を唱えて水からでた。濡れた斎服が月夜の体にぴたりと張り付いている。たくまし
い、男の体つきだ。濡れた髪を掻き揚げて手に纏わりついた水滴を払うように右手を鋭く
振り、身を翻した。
 朝焼けを眺めながら月夜は山を降りた。髪から滴る雫が朝日を受けて煌く。片目を細め
て目を伏せて部屋に戻ると体を拭いて簡単にシャワーを浴びた。このままでは凍えそうだ
った。



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